2014年12月2日火曜日

瀬戸内・南紀美術紀行(5)無量寺・熊野三山

またまたアップが遅くなってしまいましたが、昨年末から今年初めにかけて行ってきた南紀紀行を紹介します。

平成25年12月31日(火)~平成26年1月2日(木)

長沢芦雪の龍虎図襖絵が見たくなって年末年始に南紀までやってきた。
めざすは串本町の無量寺にある応挙芦雪館。


かわいい応挙の虎とは対照的に、応挙の弟子 芦雪の躍動感あふれる虎と龍の襖絵は、平成23年にMIHOミュージアムで開催された芦雪展でお目にかかっていたが、以前から一度は現地で見てみたいと思っていた。

無量寺(右の案内板の絵は虎と龍のアップ)



龍虎図はもともと本堂室中の東西の襖絵だったが、現在では境内の中にある「応挙芦雪館」に収蔵されている。
荒天のときは収蔵庫に雨が降り込んで作品を傷めてしまうので入場できないが、この日は幸いにも晴れ。
お寺の方の案内で「応挙芦雪館」に入る。

まずは応挙の襖絵12面。
この襖絵は、津波で流された無量寺が天明6年(1786年)に再建された時に新築祝いとして応挙が描いたもので、応挙は弟子の芦雪に託して襖絵を贈った。

こうして串本まで来た芦雪は、わずか1年足らずの滞在の間ではあったが、気候も温暖で、海の幸も豊富な南紀の風土の中で創作に励んだ。
「応挙芦雪館」には「龍虎図襖絵」だけでなく、子どもたちのしぐさをユーモラスに描いた「唐子琴棋書画図」もあり、こちらも逸品。

応挙芦雪館のあとに案内されたのが本堂。
この日は元旦だったので、本堂では檀家さんの法事が行われていたが、ちょうど終わったところ。
檀家さんと一緒に住職さんも出てこられたが、とても気さくな方で、私たちに芦雪の襖絵のことやお寺の由来などを説明してくださった。

本堂にある龍虎図はレプリカだが、それでも襖は本来あるべきところにあるとしっくりくる。
そんなことを考えながら虎と龍の襖絵を眺めていたら、いきなり虎図の方の襖が開いて、檀家さんの子どもが入ってきた。
いくらレプリカとはいえ芦雪の絵の描かれている襖を開けたのには驚いたが、この身近な感覚はレプリカならではなのだろう。

無量寺の次は串本の駅前からバスに乗り潮岬へ。
真冬というのにまるで沖縄のような青い空。フェニックスの木も茂っている。


毎年、寒くなると行っている沖縄のことを思い出した。
今年は南紀に来たので沖縄には行かなかったが、南紀もやはり南国。
なんとなく沖縄に通じる「ゆるい」感じが心地よい。
それに新宮には徐福公園もあり、この門の奥には首里城があるのではと錯覚してしまう。


公園の中には徐福の像がある。徐福は今から2200年ほど前、秦の始皇帝に「東方海上の三神山にある不老不死の霊薬をとってこい」と命令され、船に乗って東に向かったが、たどり着いたのがこの熊野だったと言い伝えられている。そして気候温暖、風光明媚、さらには土地の人々の温かい友情に触れ、この地を永住の地と決め、土地を拓き、農耕、漁法、捕鯨、紙すきなどの技術をこの地に伝えたと言われている。(新宮市観光協会のホームページより)

                 

お昼は串本駅前にある地元のスーパー「オークワ」で買ったサンマ寿司と太巻の折詰。
冬になると時雨(しぐ)れて寒い京都から温暖な南紀にやって来た芦雪も、とれたての魚をおいしく味わったのかな、と勝手な空想をしながらサンマ寿司をほおばった。
潮岬の雄大な景色を見ながらだったので、味もまた格別だった。



今回の南紀紀行のもう一つの楽しみは熊野三山めぐり。
12月31日には熊野本宮と熊野速玉大社にお参りしてきた。

大斎原(熊野本宮大社旧社地) 

熊野本宮の社殿は熊野川の中州にあったが、明治22年の熊野川の大洪水のあと高台に移築されている。以前読んだ本に、紀州徳川藩が厳しく熊野の森林を管理していたが、明治維新後の乱伐で森林が荒廃して熊野川が氾濫したと書かれていたのを思い出した。

現在の社殿

 本宮に通じる階段

新宮市内に戻り熊野速玉大社にお参り


今回の南紀紀行では、串本や熊野三山のへの交通アクセスも良く、スーパー「オークワ」もあって買い物にも便利だったので新宮市内に宿をとった。
こちらは「オークワ」で見つけた日本酒「熊野三山」。




1月2日の早朝には新宮市街地の後方、神倉山上にある神倉神社にお参りをしてきた。
急な石段を延々と登っていくと、熊野の神々が最初に降臨されたと伝わる大きなゴトビキ岩が見えてくる。

              

社殿から見た新宮市街。朝の光がちょうど街を照らし始めていた。

              

源頼朝が寄進したと伝えられる500段あまりの急な石段。
毎年2月6日に行われるお燈祭りでは、2000人余りの上り子とい呼ばれる祈願者たちが新年のご神火を手にこの急な石段を駆け下りるという。

              

      
そして最後は熊野那智大社。
紀伊勝浦駅からバスに乗ったが終点の「那智山」まで行かずに、途中のバス停「大門坂駐車場前」で降りて、石段が約650mも続く大門坂を延々と登って行った。
この道は、昔の人たちが熊野三山にお参りするために通った熊野古道。
これで少しは往時の熊野詣の雰囲気を味わうことができた。


三重塔と那智の滝。
              

那智の滝前の飛瀧神社まで来てお参りしていたら、今まであった滝の上の雲がすーっと消えていった。
このときふと、今年もきっといい年になる、そんな予感がした。
                  


帰る時間が近づいてきた。
那智勝浦駅で新宮行きのバスに乗り換え、宿泊したホテルで預けた荷物を受け取り、あわただしく特急列車に乗り込んだ。
南紀はとても居心地のいいところだった、と思いつつ窓の外に視線を移すと、神倉山の上にゴトビキ岩が鎮座しているのがよく見えた。心の中で「また来ます」と言ってお別れのあいさつをしていたら、列車は少しづつ動き始めていった。

(「瀬戸内・南紀美術紀行」終わり)
<Y>

2014年11月24日月曜日

夏の京都週末日帰り旅(2)苔寺

アップが遅くなりましたが、8月23日(土)に行った京都週末日帰り旅第2弾、西芳寺(苔寺)を紹介します。



(ここはせせらぎが池に流れ込むところで、私が一番気に入ったポイント。水の流れる涼しげな音と蝉の声がいかにも夏らしく感じられました)

子どもの頃、お土産にもらった京都の絵葉書で庭の素晴らしさを見て以来、行きたいと思っていた苔寺。今年の夏にフィフティプラスのツアーが出ていたので、すかさず申し込みました。
(前回の待庵といい、苔寺といい、フィフティプラスは通っぽいツアーを出してくれるので、毎月のパンフレットを見るのが本当に楽しみです)

朝8時半すぎに京都駅に着いて、そこからバスで西芳寺へ。
まずは本堂に参拝者全員が集まり般若心経の読経。
続いて護摩木に筆で願い事を書いて納めるのですが、子どもの頃書道を習っていたにもかかわらずなんとも下手な字。もっと毛筆の練習をしなくては思いつつも、心を込めて書いたのだからと納得して御本尊様の前に置き、合掌。


続いて庭園の方に移動して、お寺の方から庭園の説明をいただいてから、広い園内を散策。
庭一面の苔は120種類以上あるそうです。


庭園はどこを見ても絵になります。



こちらは少庵堂茶室。

池も絵になってます。

鎮守堂と橋、そして右奥には小舟も。

みんなが撮っていたので、潭北亭の丸窓からパチリ。

 こちらは重要文化財の湘南亭茶室。

真夏の暑さの中、襲いかかってくる蚊の攻撃を防ぎながら苔むした庭園を守る庭師さんたちも大変な重労働です。素晴らしい庭園を楽しませていただきありがとうございました。

1時間余りのゆったりとした時間を苔寺で過ごした後は、天龍寺へ。
そう、今回のツアーは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて京都で活躍した臨済宗の僧 夢窓疎石(1275~1351)ゆかりのお寺を訪ねる旅なのです。
西芳寺は、奈良時代に行基菩薩の開創と伝えられていますが、兵乱などで荒廃した後、歴応2年(1339年)に夢窓疎石により再建され、天龍寺は、嵯峨嵐山の地に足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、同じく歴応2年(1339年)に夢窓疎石を開山として開かれました。




お昼は天龍寺境内の中の龍門亭にある「篩月」で精進料理。


茄子の味噌田楽も、お麩も、豆腐も白和えも、落ち着いた客間でゆったりと味わうことができて、とても美味でした。
こういった上品な席で困るのが、大食いの私にとっては料理の量が少ないこと。
そこで賄いの方にこっそり「ご飯のおかわりできますか」と聞いたところ、笑顔で「できますよ」。
おかげでおなかいっぱいになりました。



食後は庭園を散策。
曹源池庭園は、夢窓疎石作庭等の面影をとどめているとのことです。
後方は借景の嵐山。




最後は足利尊氏が夢窓疎石を開山として中興した等持院。
等持院は足利将軍家の菩提寺で、霊光殿には歴代足利将軍(年少で病没した五代将軍・義量と、最後の将軍となった義昭とともに上洛した織田信長に追い出された第十四代・義栄を除く)と、廃仏毀釈後に石清水八幡宮から移された徳川家康の木像が安置されています。



実はこの等持院、足利将軍の木像がとても気に入っていて、来るのは3回目ですが、将軍それぞれに特徴があって、いつ見ても新たな発見があります。

たとえば、幕府の最盛期をつくった三代将軍・義満の木像はひときわ大きく、立派なあごひげをたくわえていていかにも威厳がありそうとか、失いかけた幕府の威信を高めたが、一方で気に入らない相手は誰でも処罰してしまう「万人恐怖の世」をつくった六代将軍・義教はどこか神経質そうな顔をしているとか、政治をほっぽらかしにして応仁の乱を招いた八代将軍・義政は能天気な顔をしているとか。

方丈では住職さんからお寺の由来などをおうかがいしながら、抹茶をいただきました。


庭園も緑があざやかできれいです。
正面は、政治には無頓着だったが日本文化を大事にして茶道を興じた義政好みと伝わる茶室「清漣亭」。



今年も3月の京の冬の旅に始まって、ゴールデンウィークの建仁寺、7月の待庵、8月の苔寺、11月の京都国立博物館「国宝 鳥獣戯画と高山寺」と奈良国立博物館「正倉院展」、と関西方面にはよく来ました。そのどれもが日帰りか1泊2日の短い旅でしたが、ふらりと来る、といった感覚はとても気に入っています。
来年もさっそく1月に1泊2日で京都に行きますが、やはりこの「ふらり京都旅」、当分はやめられそうもないです。
<Y>

2014年10月29日水曜日

瀬戸内・南紀美術紀行(4)金刀比羅参り

平成25年12月23日(日)金刀比羅参り
この日は終日フリーだったので、ホテルでゆっくり朝食を食べてから琴電の高松築港駅に向かった。


高松築港駅から琴電琴平までは約1時間。子どもみたいに一番前の席に陣取り、しばらく車窓を眺めることにした。

市街地を抜けるとのどかな田園風景が続いていたが、田畑の中に突如イオンモールが出現。
駅の名前も「綾川(イオンモール綾川)」。


途中駅から続々と乗り込んできた、めいめいがおめかしした女子中学生とおぼしき女の子たちの集団が、この駅でドドッと降りてイオンモールの方に向かっていった。
きっと、ショッピングをしたり、映画を見たり、食事をしながら気の合った友達どうしでおしゃべりをして休日を楽しむのだろう。

人の流れは周辺から中心都市に向かうのが普通だが、ここではその正反対。県庁所在地の高松市から隣町の綾川町に人が流れている。

やはりこういったアミューズメント施設の存在は大きい。
地方では高齢化や過疎化が深刻な問題になっているが、若い子たちをひきつけるにはこういった楽しみの場が必要だと思う。

それに若い子だけではない。
帰りには孫を連れたおじいちゃんやおばあちゃんたちが電車に乗ってきた。
どの子も手には買ってもらったお土産の入った袋を持っていて、うれしそうな顔をしている。お年寄りや子供たちにとってもイオンモールに来るのが週末の楽しみの一つになっているようだ。


琴電琴平線は単線なので、途中駅で対向電車とすれちがう。
終点から4つ手前の岡田駅でもすれちがったが、こちらの車両は直進し、対向車両が向かって左側の線路に入っていった。
なんとこの駅だけは右側通行になっている!



金刀比羅さんでは、暮れも押し詰まってきたので初詣客を迎え入れる準備であわただしい。


それでもここ表書院は静けさに包まれていた。
この日のメインテーマは表書院の円山応挙(1733-1795)の障壁画。
水飲みの虎が表書院の門の前でお出迎え。

受付を入ってすぐが鶴の間。
その隣が虎の間で、次に七賢の間、山水の間、上段の間と続く。

虎の間では、いろいろなしぐさや表情をした虎が描かれているが、応挙の虎はどれも猫のように可愛い。
桃山時代ならともかく、鎖国してからかなりの年月がたった応挙の時代は、絵師たちも本物の虎を見る機会はなかったであろう。

これは応挙がモデルにした猫?
何も知らず参道にたたずんでいる。


こちらは受付でいただいたパンフレット。
上段の間(右下)には迫力のある滝が描かれていて、水の落ちる音が聞こえてくるようだ。


右側にある虎の顔がどれも猫のようにかわいい。


このあとは参道の階段を上って御本宮でお参り。
御本宮前の舞台から見る讃岐平野はどこまでものどかに見えて、何となくほっとする。



お昼は、何年か前、金刀比羅さんにお参りに来たときに食べておいしかった浪花堂餅店の餅を食べようと決めていた。
以前はなかったが、今では参道に新しいお店を出していて、奥で座って食べられて、お茶までセルフサービスで飲めるのがうれしい。
写真は5個入りあん餅で、左からヨモギ、白、キビ、黒豆、アワ。餅にはこしがあり、中には自家製の粒あんがたっぷり入っているので結構腹もちがいい。


食事のあとは宝物館へ。

ここには狩野三兄弟(探幽、尚信、安信)が手分けして描いた三十六歌仙額が展示されている。
こぎれいにまとめる探幽、大胆な筆づかいの尚信といった印象のある二人の兄と比べて実力的には見劣りのする末っ子の安信ではあるが、三人とも気合を入れて衣装の細やかな模様なども丁寧に描いていて、安信もそれほどそん色のないできになっている。「安信再発見」です。

宝物館は北宋・徽宗皇帝の「白鷹図」を所蔵しているので楽しみして来たが、今回は展示されていなかったのは残念。展示している時を見計らってまた来なくては。


宝物館については→金刀比羅宮宝物館公式サイト をご覧ください。

ここであらためて金刀比羅宮のホームページをチェックしてみたら、この時期限定で奥書院も公開しているという。
奥書院の伊藤若冲の障壁画「花丸図」は7年前に東京藝大で開催された「金刀比羅宮書院の美」展で本物と複製で再現された上段の間を見たが、できればその場で本物を見てみたい!
期間は11月30日まで。ん~、行ってみたいけど行く時間はたぶんないだろうな~。

(瀬戸内紀行はここでおしまいです。引き続き南紀紀行を続けますが、今年も残りあとわずかなので、ペースを早めてアップしていきます(汗))
〈Y〉







2014年9月8日月曜日

夏の京都週末日帰り旅(1)国宝の茶室「待庵」

7月5日(土)、8月23日(土)と2か月続けて、京都へ週末日帰り旅をしてきました。

7月に行ったのは秀吉が明智光秀を討った山崎の合戦の舞台となった山崎。
ちょうどNHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」が、本能寺の変→中国大返し→山崎の合戦といった中盤のクライマックスの時期だったので、とてもタイムリーな旅行でした。

今回のメインは、日本に三つしかない国宝の茶室のうちの一つ「待庵」。
大山崎町歴史資料館でふるさとガイドさんたちと合流して、山崎の歴史についておさらいしたあと、「待庵」に向かいました。
秀吉が千利休に作らせた「待庵」は、現在ではJR山崎駅前の妙喜庵の中にあります。

毛利討伐のため備中高松城を水攻めしていた秀吉は、本能寺の変を聞くとすぐさま毛利と講和して引き返し、山崎の地で陣を敷くと、陣中に千利休を招き茶室を作らせました。
その後、茶室は解体され、元和九年(1623年)頃、この妙喜庵に移されたと言われています。

落ち着いたたたずまいの庭と待庵。






待庵の次は、天王山の上り坂を登り、アサヒビール大山崎山荘美術館に入りました。



美術館のテラスからは山崎の合戦の舞台となった古戦場が一望に見渡せます。



明智光秀の肖像画をよく見ると、唇を丸くすぼめてかすかに口をあけています。光秀はおちょぼ口だったのでしょうか。だから同じおちょぼ口の春風亭小朝が光秀役に選ばれたという訳ではないでしょうが、信長の専横ぶりに耐える場面や、やむにやまれず決起したときの悲壮感あふれる表情など、小朝はいい味を出してました。

美術館の次は山崎の合戦のとき秀吉が本陣とした宝積寺。

ここには軍議の時に秀吉が座ったという「出世石」。

案内してくれたふるさとガイドさんが「この石に腰かけると出世できますよ」と説明してくれましたが、柵があるのにいったいどうやって座るのかと思っていると、そのふるさとガイドさん、柵をひょいとどけて、「はいどうぞ」。
今さら出世でもないが、と思いつつ、話のタネに石に腰かけて写真を撮ってもらいました。

ふるさとガイドさんたちとはここでお別れして、豆腐料理で有名な「いっぷく亭」で少し遅めの昼食。
がんもやゆば巻きに甘めの白味噌の味がぴったりで、とても上品な味でした。


午後は眼の観音さま柳谷観音、立願山楊谷寺。


この時期はあじさいのお寺としても有名です。


眼病に霊験あらたかな弘法大師さんの独鈷水。



そして最後は学問の神様 菅原道真公を祀る長岡天満宮。


一日だけの京都旅行でしたが、国宝の茶室を見ることもできたし、いろいろなご利益のある神社仏閣もお参りしたので、きっとこれからもいいことがあるような気がしました。

今回もJR東海の50+(フィフティプラス)のツアーに参加しましたが、やはり日帰りだと、「ちょっと行ってきます」というこの気楽さが何ともいえずにいいですね。
8月も同じく50+のツアーに参加して念願の苔寺(西芳寺)に行ってきましたので、次回レポートさせていただきます。