2012年12月31日月曜日

沖縄戦跡紀行(3)

平成23年10月28日(金)続き

牛島中将が自決した洞窟の上に立つ「黎明の塔」は、この摩文仁地区の慰霊塔群の一番奥にある。各県の慰霊塔が並ぶ間を通り、慰霊塔が途切れた先の坂を登ると、とても10月下旬とは思えない明るい太陽の光の中に黎明の塔が見えてきた。


塔から海岸の方を見下ろした位置に第32軍司令部の洞窟がある。
 
 
 
        

入口には鉄格子があり、中に入れないようになっている。
近づいてみると、右手には「第32軍司令部終焉の地」と刻まれた碑があるのがわかった。
その後ろには観音菩薩像。この写真を撮ったあと、深く頭を下げ、手を合わせた。








 黎明の塔の手前には牛島中将以下、第32軍司令部戦没者を慰霊する「勇魂の碑」がある。






 
 
坂を下り、引き返そうとしたところ、後ろにキャタピラの音。
黎明の塔付近はちょうど整備のため工事中であったので、工事用の車両が黎明の塔に向かうところであった。
第32軍司令部の人たちが米軍の戦車と間違えなければよいが。 
  
 
坂を下りきったところにあるのは義烈空挺隊の慰霊塔。
義烈空挺隊は、昭和20年5月24日、米軍占領下の北および中飛行場に九七式重爆撃機で強行突入し、飛行場突入後は地上戦を展開し、敵機の破壊と軍事物資の焼却を行うという壮絶な作戦を敢行した部隊である。
北飛行場には5機が突入し、飛行機や物資集積所を破壊した。しかし、残念ながら中飛行場への突入についての記録はなく、戦果は定かではない。
それでも彼らの攻撃により両飛行場が 大混乱に陥ったことは事実である。

次の目的地は米陸軍第10軍司令官 バックナー中将の慰霊碑。
平和祈念公園からはバスの乗り継ぎがあまりよくないのでタクシーで行くつもりでいたが、タクシー乗り場にはタクシーが1台も見当たらない。
しかたがないので、バス停のある国道331号まで出てつかまえようとしたところ、客を降ろしたとおぼしきタクシーの後ろ姿が見えたので手を振りながら追いかけたが、気がついてもらえず、はるかかなたに行ってしまった。
やれやれ、バスで最寄りの「真栄里入口」まで行って、そこから往復40分くらい歩くしかないか、などと思いながらバス停「平和祈念堂入口」までとぼとぼ歩いて行ったら、さっきのタクシーがコンビニの駐車場で停まっていた。
中をのぞいたところ、誰もいない。しばらく待っていると気のいい感じの運転手氏がこちらに近づいてきた。
「バックナー中将の慰霊碑に寄って糸満に戻りたいのですが」
その運転手氏は笑顔でうなずく。

話し好きの運転手さんである。走り始めてしばらくたつと私に話しかけてきた。
「バックナー中将の慰霊碑にはあまり行く人がいないんですよ」
「そうですか。でも、沖縄県民をひとりでも助けようとした人だったというのは聞いているので、ぜひ行ってみたいと思ったんです」
「そうですね。バックナー中将は、一般の県民を大切にしたので地元の人たちにも慕われているんですよ。ただ、戦死した後、アメリカ軍は一般市民も軍人も見境がつかなくなって悲惨なことになったんです」
15分ほど走ると、案内表示が見えてきた。
「ここで待っているので、ゆっくり見てきてください」


太平洋戦争後期は物量作戦で日本軍を圧倒した米軍にとって、司令官クラスが戦死するというのは非常にまれなケースであった。階段を上った正面にあるのは、同じく戦死した米第96歩兵師団副師団長 イーズリー准将の慰霊碑。
沖縄戦はアメリカ軍にとっても壮絶な戦いであった。

イーズリー准将の慰霊碑の左隣にバックナー中将の慰霊碑がある。


タクシーに戻り、糸満公設市場に着けてもらうようお願いした。
道中、また運転手さんの方から話しかけてきた。
「先日、親戚の結婚式があって前の日から〇〇島(沖縄の離島だが島名は失念してしまった)に行ったんだけど、その家に泊まらないで、近くの宿に部屋をとったんですよ。なんでだかわかりますか。その家に泊まったら朝まで飲まされるからね。若いころならともかく、今では朝まで飲んでそのまま結婚式で飲むなんてできないからね。私は適当に切りあげて宿に泊まって、次の朝、その家に行ったんだけど、やっぱり泊まっていた人たちは朝まで飲んでいたね」
こういったことを沖縄独特のゆったりとしたイントネーションで話し始めた。もっと話を聞きたいと思ったが、糸満に着いたので、公設市場でタクシーを降りた。
 
もう一度公設市場あたりをプラプラしたあと、時間になったので那覇市内に戻るバスに乗り込んだ。
夜は亜熱帯特派員のサバヒ君と合流して、一杯(いっぱい?)飲む約束をしていた。
<Y> 
(次回に続く)

2012年12月1日土曜日

沖縄戦跡紀行(2)

平成23年10月28日(金)続き
糸満バスターミナルを1時過ぎに出発した琉球バス82番は、一路南下し、ほどなくするとサトウキビ畑が一面に広がる中を通り過ぎていく。
摩文仁の平和祈念公園までは約30分。この間を利用して沖縄戦について振り返ってみることにした。

昭和19年 7月 7日、サイパン島が陥落してから沖縄への米軍の攻撃は現実のものとして迫ってきた。そこで学童をはじめとした民間人の本土や台湾への疎開が始められたが、「対馬丸」の悲劇が起きたのはこういった動きの中での出来事であった。
事件が起きたのは 8月22日。疎開学童たちを乗せて本土に向かっていた「対馬丸」は米潜水艦ボーフィンの雷撃を受け沈没し、多くの学童ほか民間人が犠牲になった。

これは那覇市内にある「対馬丸記念館」。去年12月に沖縄に行ったときに撮ったもの。

10月10日には米機動部隊が沖縄の各地を空襲した。これは「10・10空襲」と呼ばれ、那覇では市街地の約90%が焼失している。
その後10月20日には米軍がフィリピン・レイテ島に上陸、翌昭和20年2月19日には硫黄島に上陸し、巨大なアメリカ陸海軍部隊の足音が一歩一歩沖縄に近づいてきた。
そして3月26日、米機動部隊の猛爆撃に続き、米陸軍第77歩兵師団の慶良間群島上陸により沖縄の陸上戦が始まった。
4月1日には米第10軍主力が沖縄本島・嘉手納海岸に殺到した。

これは翌日(10月29日)に行った嘉数の展望台から見た嘉手納海岸。

4月7日には、前日に呉から沖縄に向けて出撃した戦艦「大和」を基幹とする第1遊撃部隊が、のべ300機を超える米機動部隊艦載機の攻撃を受け、沖縄突入という目的を達せず、「大和」は鹿児島の坊ノ岬沖に沈没した。
この写真は平成20年(2008年)1月にラマダビーチ近くの海岸で撮った岩の写真。私には沖縄にたどり着けなかった「大和」が艦首を右に向け横転し、波に洗われている悲痛な姿のように見えた。
下の地図に、対馬丸と大和の沈没地点を示してみた。
対馬丸は九州を目前にして沈められ、大和は沖縄のはるか手前で無念の沈没。

右下の地図は沖縄本島南部の拡大図で、主に今回訪ねたところを示した。


 4月8日、嘉数高地での戦闘が始まった。19日には日本軍守備隊が30両の米戦車隊のうち22両を撃破するという殊勲をあげたが、24日には米軍の圧倒的な火力に押され嘉数高地が陥落。
5月に入ると首里のすぐ目の前のシュガーローフ・ヒルでの戦闘が始まった。
シュガーローフ・ヒルの戦いは5月12日から始まり、一進一退の攻防が続いたが、18日ついに陥落。
5月24日には、義烈空挺隊が米軍占領下の北飛行場(読谷飛行場)に突入し、敵陣をかく乱した。
シュガーローフ・ヒルの陥落により直接攻撃が及ぶことを怖れた首里城地下の陸軍第32軍司令部は、5月22日に南部の摩文仁に撤退することを決定し、第32軍は27日に南下を開始。
首里は第32軍司令部撤退後の29日、米軍が占領。
那覇中心の南西、小禄の洞窟に司令部を置いていた海軍沖縄方面根拠地隊は第32軍の撤退により孤立化し、6月13日 司令官 大田実少将が自決。
ひめゆり部隊が戦死したのと同じ6月19日、米第10軍司令官 バックナー中将が日本軍の攻撃で戦死。
そして6月23日、第32軍司令官 牛島中将が摩文仁の洞窟で自決し、日本軍守備隊の組織的な戦闘は終わった。
本来であれば北の戦場から順を追って回った方がいいのかもしれないが、帰りの飛行機が心配なので、翌日は「ゆいレール」が使え、ある程度時間の計算ができる中部の戦跡に行くことにして、この日は南部戦跡を回ることとした。

まばゆいばかりの青空の下を走っているうちに平和祈念公園のバス停に着いた。



公園管理事務所でパンフレットと慰霊塔位置図をいただき、まずは第32軍司令官 牛島中将と幕僚たちが自決した摩文仁の洞窟の上に建つ「黎明の塔」に向かった。
(次回に続く)
   
      

2012年7月9日月曜日

沖縄戦跡紀行(1)

去年の10月、以前から企画を温めていた「沖縄の戦跡をめぐる旅」に行ってきました。
沖縄というと、冬の寒さから脱け出して、温暖な気候の中、心ゆくまで「ゆるんで」くる旅が多く、これではいつまでたっても行けないと思い、「沖縄戦をしっかり振り返らなくては」と心を引き締め、去年の10月28日(金)から29日(土)の2日間、沖縄戦跡めぐりをすることにしました。
アップするのが遅くなってしまいましたが、今日から何回かに分けて「沖縄戦跡紀行」を紹介していきます。途中、いままでの沖縄旅行を回想したりして、回り道することもあるでしょうが、しばしの間おつきあいください。

平成23年10月28日(金)
2日間という限られた日数なので、できるだけ時間を有効に使おうと思い、羽田空港を朝7時45分に出発するANA125便で那覇に向かった。
5時に起きて、顔を洗って着替えただけで家を出てきので、朝食はまだだった。そこで、チェックインを終えると、サンドイッチとコーヒー、デザート代わりの菓子パンを買い、搭乗口近くのベンチに腰かけ、滑走路を眺めながら軽めの朝食をとった。
戦跡めぐりとはいえ、沖縄に行けるというだけで心が軽くなり、すでに気分は南国。いつの間にかゆったりした気分になるから不思議だ。


那覇空港には予定どおり10時15分に到着。
空港ではまず「沖縄観光コンベンションビュロー」の案内窓口に立ち寄り、バスマップを入手。
自動車の運転免許は持っているが、まったくのペーパードライバーなので、頼るのはバスしかない。バスマップは強い味方。


初日は、バスを乗り継いで、日本陸軍第32軍司令官 牛島中将ほか幕僚が自決した摩文仁の司令部壕まで行き、日本軍の砲弾に倒れた米陸軍第10軍司令官 サイモン・バックナー中将の慰霊碑に寄って那覇に戻ることにした。
そして2日目は、帰りの便の心配もあるので、ゆいレール沿線や那覇の中心部に近い、嘉数高地、シュガーローフヒルなどの激戦地、第32軍司令部壕のあった首里城周辺、「沖縄県民斯ク戦エリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」で終わる有名な電文を送ったあと自決した海軍沖縄方面根拠地隊司令官 大田実少将が立てこもった海軍壕に行くつもりだ。

那覇空港からゆいレールに乗り、小禄駅で下車し、そこから沖縄バス89番に乗って糸満に向かった。
まずは、漁師の町・糸満で昼食に海の幸を食べて、胃袋から南国気分にひたろうという魂胆だ。
下車したバス停は、糸満市場前。
すぐ前の漁港の岸壁まで出て海の香りを胸いっぱい吸い込んでからバス停にもどり、あたりを見渡すと「糸満市中央市場」の看板が目に入った。お昼には少し早かったが、おなかもすいてきたので、お昼を食べる食堂をさがすことにした。



これが公設市場のアーケードの中。


アーケードの中に入ると「ゆう」という大きな看板が目についた。
この看板をくぐり奥に入ると、カウンター下に定食の短冊がかかっていた。
メニューの中から迷わず選んだのが「魚汁定食」800円。


出てきたのがこれ。
とれたての魚にみそ味がよくしみ込んでいて、身も柔らかく食べやすい。



10月とはいえ、外の気温はゆうに30℃を越えている。汗をかきつつ、アイスコーヒーの氷が溶けないか心配しながら、料理を全部平らげ、まずは満足。
乗り継ぎのバスが出るまでまだ時間があったので、食後は周囲をふらふら歩いてみた。
これは「ビストロ ゆう」の向かいの建物にあるトイレから出たところ。


これが中庭。

こういう景色を見ていると、「南の島のリゾートに来たんだなあ」とあらためて実感する。
パスポートも必要ないし、日本語も通じるし、あえて海外に行く必要はないと思う。
南国のけだるい午後のひととき。店の奥でおじさんが弾いている三線の音を聴いていると、さらにゆったりとした気分になってくる。



そういえば、向かいの建物の壁には「糸満市公設市場改造イメージ図」と書かれた看板が掲げられていた。
平成元年3月とあるので、バブルの時期に計画され、バブルの崩壊ともに消え去ったものなのだろう。たまに訪れる旅行者の勝手と思わるかもしれないが、今となっては、古き良き糸満の雰囲気が消えてしまうこの計画が実現しなくてよかったと思う。




まだ時間があったので、糸満バスターミナルまで5分ほど歩き、那覇空港に降り立つジェット機を眺めながら、午後1時に出発する玉泉洞行きの琉球バス82番を待つことにした。
これから向かうのは米軍の猛攻に追い詰められた日本軍が最後の抵抗を試みた南部の戦跡。
ゆるんでばかりはいられない。

<Y>
(次回に続く)

2012年6月18日月曜日

江戸東京街歩き(4)

美術館のハシゴが趣味というわけではないが、先週の日曜日(6月10日)にも美術館をハシゴしてきた。
午前中は六本木・国立新美術館で「セザンヌ展」(3月28日~6月11日)、午後は日本橋・三井記念美術館で「ホノルル美術館蔵・北斎展」(4月14日から6月17日)。
どちらの美術展も会期末ぎりぎりだったので滑り込みセーフ。

それにしてもこの春は内外の美術展が充実しているので、日程調整が大変だった。
今年はまだ半年もたっていないのに、江戸東京博物館のNHK大河ドラマ特別展「平清盛」にはじまり、東京国立博物館「北京故宮博物院200選」、bunkamuraザ・ミュージアム「フェルメールからのラブレター展」、板橋区立美術館「奥絵師・木挽町狩野家」、川崎・砂子の里資料館の浮世絵などなど、作品の和洋中、美術館の大小を問わず、すでに23もの美術展に行っている。
もちろんうれしいことではあるが、このあたりでようやく美術展ラッシュが終息する。当面は7月16日までの「エルミタージュ展」(国立新美術館)と「京都 細見美術館PartⅡ 琳派・若冲と雅の世界」(そごう美術館)だろうか。

私は美術の専門家ではないので美術評論など大それたことはできないが、もっぱら「週末モデラー」を楽しんでいるので、気に入った作品があればパンフレットを切り抜き、コレクションボックスの中にジオラマ風に展示して私のホームページの「今月のコレクションボックス」で紹介していきたいと思う。
(私のホームページのURL→http://hwm8.spaaqs.ne.jp/yamaguchi-25/
「今月のコレクションボックス」2月号で国宝「源頼朝像」他を展示しています)

そしてもう一つの楽しみが、美術作品にちなんで街歩きをすること。
やはり「週末散歩」が楽しみで、広重にちなんで東京歩きをしようと思って集英社新書ヴィジュアル版『謎解き広重「江戸百」』、『広重の富士』を買ったり、狩野派ゆかりの地を歩いてみようかなどと、構想ばかりが頭の中に浮かんでくるが、なかなか時間がとれないのが大きな悩みだ。

それでも今回は六本木に行ったついでなので、前々回に引き続き「二・二六事件」にちなんだ場所を少しだけ歩いてみた。

ここは、青年将校たちが蜂起の打ち合わせを何回も行ったフランス料理店「竜土軒」のあったところ。竜土軒は西麻布に移転して、この場所は、今ではガソリンスタンドになっている。


この写真は向かいのメルセデス・ベンツ社がブランド発信基地として去年12月にオープンした「メルセデス・ベンツ・コネクション」の2階から撮ったもの。
「メルセデス・ベンツ・コネクション」には、もちろん車も展示されているが、1階にはコーヒーショップ「Downstairs」、2階はビュッフェスタイルのレストラン「Upstairs」と分かりやすい名前の店が入っている。この日は「Upstairs」でお昼を食べた。


 オープン直後に来たときと比べてビュッフェの品数が少なくなったのは今一つだったが、一つひとつの料理の味はしっかりしているし、おしゃれな雰囲気の中で食事ができたことに料金を払ったと思えば高くない(?)。
(メニューや料金はこちらをご参照ください。ちなみに私はスープセット1,200円)
http://www.mercedes-benz-connection.com/shared/pdf/menu02_01.pdf


続いて前回に続き、東京ミッドタウン。
今回は正面から撮ってみた。


この日は、このあと東京メトロの六本木駅から三越前駅に向かったため散歩はここまで。続きはエルミタージュ展に行ったときに歩こうと思っている。
<Y>

2012年5月19日土曜日

江戸東京街歩き(3)

今日も美術展を2つハシゴしてきた。
別にハシゴが趣味というわけではないが、興味のある美術展が目白押しなので、毎週末忙しく動き回っていて、うれしい悲鳴を上げている。

今回は、午前がサントリー美術館の「毛利家の至宝」展、午後が千葉市美術館の「蕭白ショック!!曾我蕭白と京の画家たち」。
これは天空に向けてそびえ立つ東京ミッドタウン。サントリー美術館はこの3階にある。

江戸時代には長州藩毛利家の麻布下屋敷(檜屋敷)だったおもかげといえば、かつて下屋敷の庭園があったあたりに新たに整備された港区立檜町公園。今日は天気も良く、緑がまばゆいばかりだ。


高層ビルの谷間の緑の空間。大名屋敷があったからこそ残された(あるいは整備された)緑が多いのも東京の特徴だろう。
たとえば彦根藩井伊家の屋敷を例にとると、上屋敷は現在の国会議事堂周辺で、国会前にはその名のとおり国会前庭和式庭園が整備されている。中屋敷があったところは現在のホテルニューオータニで、敷地内には立派な庭園が整備されている。下屋敷跡は現在の明治神宮で、やはり木がうっそうと茂った森が残されている。
歩き疲れたときに、緑の中、ベンチに腰かけて一休み。東京の街歩きはそんなぜいたくなこともできる。
<Y>

2012年5月13日日曜日

江戸東京街歩き(2)

今日は美術展を2つハシゴしてきた。
一つは静嘉堂文庫の「東洋絵画の精華」、もう一つは畠山記念館の「唐物と室町時代の美術」。
東急の二子玉川駅に着いたのが12時前だったので、駅近くのコーヒーショップでパニーニとコーヒーで軽めの昼食を済まし、静嘉堂文庫までの遊歩道をゆっくり歩いて行った。太陽の光が輝き、さわやかな風が吹いて、もう初夏といっていいくらいの心地よい陽気。
静嘉堂文庫の一番の目当ては「平治物語絵巻 信西巻」。
4月29日には東京国立博物館で、「三条殿夜討巻」(ボストン美術館蔵)と「六波羅行幸巻」(東京国立博物館蔵)を見たので、これで絵巻の形で現存する「平治物語絵巻」三巻(ほかに色紙状に裁断された数葉と模本が二巻)をここ2週間の間にいっきに見たことになる。ただし、「信西巻」は巻き直しがあり、今日見たのは最後の第四段だったので、第一段から第三段まではあらためて見に来なくてはならないが、ボストンと違って静嘉堂であれば気軽に来ることができるので、展示する機会をのがさないでいつか見ることにしよう。

(展覧会の内容は静嘉堂文庫のホームページをご参照ください)
http://www.seikado.or.jp/

次は畠山記念館。
二子玉川までもどり大井町線に乗り、大岡山で目黒線に乗り換え、南北線の白金台で下車。
白金台からは歩いて10分ぐらい。住宅街の中にひっそりとたたずむ、緑にかこまれた畠山記念館。
ここでの目当ては、伝・夏珪筆の「山水図」と、伝・周文の「山水図」。
中国・南宋の画家、夏珪の作品は、雪舟が手本にしただけあって、「山水長巻」と雰囲気がよく似ている。「山水長巻」は来週見に行く予定。「没後500年 特別展 雪舟」依頼10年ぶりなので楽しみ。

(展覧会の内容は畠山記念館のホームページをご参照ください)
http://www.ebara.co.jp/csr/hatakeyama/

上にあげた作品のほかにも、多くの芸術作品にふれて、今日はいい一日だったな、と満足しながら白金台駅に向かう途中でふと思った。

「日本の古美術品にも三層構造は成立している」

江戸幕府の崩壊後、徳川家や大名が所有していた美術品は、金と力を失った大名たちから、皇室や現在の国立博物館、そして財閥や大企業の手に渡った。
静嘉堂文庫は三菱、畠山記念館は荏原製作所が設立したもので、いずれも経営者が蒐集した東洋の古美術品を収蔵している。ただし、ここでは必ずしも第一層 江戸幕府→第二層 明治政府→第三層 民間企業の順に整然と並んでいるのでなく、第二層と第三層は同時並行になっている。

それにしても、私たち一般の人にとってはありがたいこと。
大名が所有していたときは限られた人しか拝見できなかったが、今では時期の制約などはあるものの、入館料さえ払えば第一級の美術品を誰もが見ることができる。
それに、廃仏毀釈の難を逃れた仏教美術の受け皿になってくれていることもうれしい。

たとえ海外に流出したとしても、そこで日本の美術作品が守られているわけだし、海外の人にとっても日本文化を理解してもらういいきっかけになる。
私たちがブリジストン美術館でモネやセザンヌの作品を見て印象派の作品を味わうことができると同じだ。

帰りに、白金台駅近くの瑞聖寺にお参り。大雄宝殿は、江戸中期の再建で、重文。ここには山の手七福神の布袋さんも祭られていて、以前、七福神めぐりのときお目にかかっているが、今日は暗がりの中、シルエットだけがうっすらと見えたので静かに手を合わせた。

タワーマンションが立ち並ぶ白金台。そこから一歩離れると江戸時代の建物が出てくるというのはやはり東京歩きのおもしろさ。<Y>





2012年4月22日日曜日

江戸東京街歩き(1)

今年は3月の下旬になっても寒い日が続いたので桜の開花も遅く、満開になるのも4月中旬くらいになるだろうとのんびりしていた。ところが、4月に入ってすぐ「東京の桜の見ごろは今週末」と新聞に出ていたので、あわてて4月8日の日曜日に東京に出かけることにした。
いつも歩くのは、上野→皇居周辺→靖国神社のコース。今回は歩き始めた時間が遅かったので、上野から地下鉄を使って靖国神社まで行って、東御苑には入らず、皇居のまわりを歩きながら東京駅に戻る、というルートで行くことにした。

この日は雲一つないいい天気。空には飛行船が浮かんでいる。正面の旧寛永寺五重塔は桜の花に隠れていた。


アップにしてみると五重塔らしきものが見えてくるだろうか。

下の2枚の写真は、8年前の花見のときに撮った写真。左の写真は、桜は満開だったが、まだ木が育っていなかったせいか、五重塔が良く見える。下は清水観音堂。






五重塔のあとは桜通りの桜のアーチの下をくぐり、清水観音堂から不忍池を通って地下鉄千代田線の湯島駅に抜けた。いつもなら弁天堂の前を通るのだが、途中の道があまりに人がかったので、池沿いを歩いて遠くから眺めることにした。



(上野恩賜公園の案内図)

http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/toubuk/ueno/annaizu.pdf

上野恩賜公園は、江戸城の北東に位置し、かつては江戸の鬼門を守る東叡山寛永寺だった。江戸城無血開城後も彰義隊が立てこもり、明治政府軍と激しい戦いを繰り広げたため、伽藍の多くは破壊されてしまい、今ではこの五重塔や上野東照宮、清水観音堂などいくつかの建物を残すだけになってしまった。



それでも関東大震災や戦災からよく生き延びたものだと思う。
おかげで、今でも十分に江戸の面影を楽しむことができる。

基層部には江戸があり、明治の名残りや、昭和が感じられる街、新しいショッピングモールといったものが重層的に折り重なっている。

過去と現在が地層のように折り重なる街、東京。
こんな東京のことを、私はひそかに「東京三層構造」と呼んでいる。
一番下の層は江戸時代。次が明治から敗戦まで。一番上が戦後。
第一層を代表するものは、江戸城のお堀、石垣や門、そして、江戸時代に創建された神社仏閣。
第二層は、法務省旧本館や近衛師団司令部など明治政府が建設した赤レンガの官庁や軍関係の建物のイメージが強い。
第三層は、戦後に建設された高層ビル群や、バブル期以降では元国有地などを利用して再開発された複合施設だ。

三層構造の典型的なのが東京・六本木にある東京ミッドタウン。
江戸時代は萩藩毛利家の下屋敷、明治維新後は陸軍第一師団歩兵第一聯隊の駐屯地、戦後は米軍将校の宿舎を経て防衛庁、と時の為政者、権力者に使われてきたこの土地は、三井不動産によって再開発され、2007年に東京ミッドタウンとしてオープンした。
三層構造の変化の中で、世の中の主役が武士や官から民に移っていく過程がよくわかる場所だ。
(東京ミッドタウンの歴史)

http://www.tokyo-midtown.com/jp/about/history/

東京ミッドタウンにあるサントリー美術館では、この地がかつて毛利家の下屋敷だった縁で「毛利家の至宝」展が開催されている。こういったコラボは大歓迎。雪舟の「山水長巻図」は、以前、東京国立博物館の「雪舟展」でじっくり見たが、今回も楽しみ。


東京ミッドタウンの向かいは国立新美術館。
ここは戦前、陸軍第一師団歩兵第三聯隊の駐屯地だったところ。
昭和11年2月26日の早朝、歩兵第一聯隊と歩兵第三聯隊の青年将校たちが蜂起し、首相官邸や大蔵大臣私邸などを襲撃した。日本中を震撼させた二・二六事件である。
今では国立新美術館の新しい建物が立ち、当時の面影は何もない、と思っていたが、なんと当時の兵舎の模型が展示されていた。これは去年の12月に撮ったもの。



毎年2月になると、今年こそは二・二六事件の跡をたどろうと思い立つが今だに実現していない。
ゴールデン・ウィーク明けには、サントリー美術館に行くし、国立新美術館の「セザンヌ展」も「大エルミタージュ展」も行くので、その時、あたりの写真でも撮ってこようと思う。
<Y>